僕は誰かの延長


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少し前、いつものようにTweetした中の一つに多くのEmgagementがあった。
(Engagement: RetweetやFavouriteの行為総称)

そのTweetはある有名人についてではあったけど、それはその有名人自身というより、その周辺で起きたことについてだった。(少なくとも僕はそのつもりだった。)

そして、そのEmgagementの中で、人を貶す際によく使われる2文字(頭部にある長い友達が不足している状態のこと)が僕のもとに送られてきた。
それを見た時、別段怒りも何もなかった。単純に熱狂的なファンが過剰反応しているだけだと思った。僕はその反応を紛らわすよう、同時に怒りを怒りで返すのがあまりにも芸がないと思い、少しフザけた画像と自分に悪気はなく、その人の周辺にあることを指摘したまでと返信した。
それを見たその人は、謝罪を受け入れてくれたが、この誤った情報のせいでその話題の人物の信頼が落ちると懸念していた。

それから、間もなくして、別のリプライが送られてきて、それは僕の流した情報が正しくないことを指摘していた。僕は尽かさず、情報を探ると、その人の言う通り、事実ではないことが分かった。僕はすぐにその人に情報提供の礼、自分の確認した内容と一致したのでツィートを削除することを告げた。その後、その人は感謝のリプライを送ってきてくれた。

そのすぐ後、もう一人の人にも状況を伝え、ツィートを削除したことを告げた。
この二人は共に同じ人を、僕が誤った情報を流した人を敬愛している。
でも、二人の反応は全く違っていた。
包み隠さず言うと、一人の行為は僕におけるその敬愛する人の評判を落とし、もう一人は上げた。
そしてプラス1とマイナス1で、現状は元のままになっている。その作品を少し摘んで見ようかと思っているけど、あまり関心はない。
でも、この二つの行動をちょっと考えている時、ふと言葉が浮かんだ。

”僕は誰かの延長である。”

みんな誰でも尊敬する人の一人や二人はいると思う。
誰もが尊敬する人のように出来る訳ではないし、彼らのようには生きられない。
マザーテレサを尊敬しているからといって、生涯の全てを他の人の捧げることはできない。
Steve Jobsを尊敬しているからといって、彼のようにデザインセンスに長けているわけでも、アイデアを現実化できるわけでもない。
でも、少なくとも尊敬する人の名を語る時、尊敬して止まない人のようであれればと思う。

マザーテレサを語る時、ちょっとしたことでもいい、疲れている同僚に声を掛け、自分に出来ることはないか伝えるころが出来ればと思う。
Steve Jobsを語る時、愚かさを恥じらわず、こだわりと自身の好きなものに対しての情熱を語れればと思う。

尊敬する人を僕に尊敬たらしめた彼らの言動の映し鏡あればと願う。
なぜなら人は僕が尊敬・敬愛する人を語る時、そこにその人を見出すから。
僕が、僕の尊敬・敬愛する人を語る時、僕は彼らの言葉であり、行動なのだから。
僕が、僕の尊敬・敬愛する人を語る時、僕は彼らの伸びた手であり、口であるのだから。

僕は僕ではない。
僕は僕の愛し、目指すものでしかない。

誤りを正した後、僕はこんなことを考えた。

怒りや誤理解のあまり、声を上げたり、非難するのは判る。
それが自分の尊敬・敬愛するものであればある程、怒りや憤りは激しくなる。
でも、それでも、自分の尊敬・愛するものが傷つけられた時、この事を思い出せればと思った。
なぜならきっと僕もそう思わせている何かの延長だと思うから。
そして、そうであるからこそ、僕はその延長となっているのだから。